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有明堂本舗

日常生活のなかにあるちょっとしたことへの興奮

新しい緑ジャケットと、死にかけるまんがのおばけ

今からちょっと「ルパン三世」というものへの記憶と体験の齟齬について書こうと思う。ルパンシリーズをイチからちゃんと観返したら、ずいぶん記憶と違うかもしれないけれど、とりあえず今のふわふわしたものを。

 

『血煙の石川五エ門』を観た。平日のTOHOシネマズ川崎はガラガラだった。

 

どこまで全国区の体験かはわからないけれど、少なくとも都下で育ったアラサーの僕にとって『ルパン三世』といえば、学校から帰ると日テレの夕方16時くらいから再放送がやっていて、とりもなおさずぼんやりと観て、ついでに『シティハンター』の再放送も観て、半年にいっぺんのTVスペシャルを観る、そういう存在だった。再放送はもっぱらパート2で、つまり僕にとってのルパンは、基本的に赤ジャケットだった。カリオストロの城は緑ジャケットだけれど、まあ、あれも赤ジャケの範疇といってよいと思う。

 

ついでにいうと『峰不二子という女』以降、2012年からの新シリーズは『次元大介の墓標』と今回の『血煙』の2作しか観ていないし、原作マンガもろくすぽ読んでないし、パート1とパート3も記憶があんまりない。その状態で新シリーズについての感想を書くのもおこがましいのだけれど、なんかこう、新シリーズ……個人的にはしっくりこない。ルパン一味を「人間」にしたいのかそうでもないのか、うまく掴めないのだ。これは単に慣れの問題なんだろうか?

 

僕の記憶のなかでは、赤ジャケットのルパンは、基本的にはすけべでコミカルで、超人的(ご都合主義的)になんでもできて、どんなに大怪我を負っても次の週にはケロリとしている、おおよそ死ぬ身体とは無縁のキャラクターだった。

いや、TVスペシャルではもうちょっと死にそうな身体を持ってたような気もする──『ワルサーP38』は島の毒ガスについてうやむやに終わった記憶がある──けれど、身体が欠損する描写はなかったように思うので、「まあ半年ありゃリセットするでしょ」みたいな感覚が、事後的に思い返してみるに、あったような気がする。

 

そこで今回の『墓標』と『血煙』なんだけれども、今回のルパン一味、なんかみんなすごく簡単に死にそうなのだ。

 

圧倒的な能力をもって襲いかかる敵に対して、なすすべなく蹂躙されるかのように描かれる、新シリーズのルパン一味。持っている泥棒技術もわりと普通で、金庫あけに超人的ご都合主義を発揮するでもないし、敵にやられれば平気で肉が引きちぎれるし、やられて逃げるにしても、逃げ方が生ナマしい。

なんかすごく「人間」なのだ。しかし後半になると、急になんかよくわかんないご都合主義を発揮して、ルパン一味が「超人」になってしまう。ぼろぼろになった身体を抱えたまま。

 

「なんかちがくない?」と僕は思うわけです。「どっちかにしてくんない?」と。人間か超人か、死ぬ身体を持つのか、そうでないのか。物語の区切りを越える前にご都合主義が発動するのは、反則じゃない?って。べつに僕はご都合主義が許せないのではないし、リアリティ水準が変わることそれ自体に怒っているわけでもない。劇中で、キャラに対するリアリティの水準が、不自然に、変わってしまうのが許せないのだ。

 

もちろんこういう反論もありうると思う──各話のクライマックスで分かる通り、超人的で傷つかないようにみえる敵役のキャラクターたちも、一味の反撃によって「肉が裂ける」描写があり、敵もまた決して死なない存在ではないことが顕わになる。作品内ではこのレベルで描写が一貫しているので、鑑賞しているキミがこの「再設定されたリアリティ水準」に慣れていないだけなのだ──まあそれはそうかもしれない。

 

さらにはこういう問題もある。「お前シン・ゴジラはめっちゃ楽しんじゃったじゃん」という問題。ファミリーゴジラじゃなくてシリアスゴジラ支持しちゃったじゃん。

 

これについてはこういう主張をしたいと思う。

シン・ゴジラはご都合主義に〈技術〉を使って、人間の身体を使わなかったから、ぼくは許せた。新ルパンは人間の身体能力が伸び縮みするからヤダ」

シン・ゴジラで矢吹蘭童が巨大化してウルトラマンになったら、ぼくは庵野を一生許さなかっただろう。

 

 

しかしたぶん、僕の考えにはもっと切実な問題があるのだと思う。画面デザイン、絵のタッチについて一切考えがいっていないのだ。

 

たぶん僕は考えをこう改めないといけないのだと思う。あの絵のタッチが動く、あの絵柄のアニメーションが先にあって、あの絵のために物語が説得力を与える構成をとると、ああなるのだ。それは僕がよく知っている赤ジャケットの構成とはずいぶん違っていて、べつの言葉で説明されなければならないものなのだ。

 

──とはいえ、今のところその「べつの言葉たち」を探す気にはあんまりなれないので、誰かやってくれることを心待ちにしたいと思う。

「半年に5分」のあいだがら

「書きたいことが思いつくたびにブログサービスを乗り換える男」でおなじみ、有明堂本舗 店主のおひさしです。ごきげんよう。打ち棄てた廃墟のほうもよろしくお願いします。

有明堂本舗(はてダ):http://d.hatena.ne.jp/ohisashi/

有明堂本舗(note):https://note.mu/ohisashi

 

 

さて今回は、コミケに参加してみて、その独特のコミュニケーション形式がけっこう清々しくて、「半年に5分だけ話す」というのがもっと生活の基本形になってもいいのじゃないかと思った話をしようと思います。

 

 

12月29日、冬コミの1日め。今回初参加するという友人に売り子とサポートを頼まれたぼくは、サークル主と一緒に朝イチ入場し、ブース設営から撤収まで丸1日手伝った。

 

僕は文フリなどにはサークル参加していて、別に全く初めてというわけではなかったこともあり友人にサポートを頼まれたのだけど、イベントに自分で頒布物を用意せず、売り子だけでの参加というのは初めてだったので、なかなか新鮮ではあった。


色んなひとがブースに来てくれた。ピンポイントで来てくれるサークル主の知り合い。ぜんぜん誰だかわからないけど、どうやらカタログをみて狙い撃ちしてくれているらしいひと。買うまではいかなくても、島を回るついでにパラパラと見ていってくれるひと。他のサークルのついでに差し入れを置いていってくれる僕の友人。

 

特にぼくが気になったのは、「ピンポイントでやってきて、どう考えてもネットでは互いを知っているのだが、顔を知らないので誰だかわからないひと(しかも名乗らない)」とサークル主が、新刊の内容について5分もしないくらいだけしゃべって、べつにアフターの約束をするでもなく、サッと解散するというのが、とても多かったことだ。

 

様子をみていると、ブース番号を頼りにまっすぐ来る。隣のサークルとか、全然みていない。ブースが合っているか確認し、立ち止まり、一通り机の上をみる。どう考えてもネット上では知り合いであろうことは、間違いない。でもまだ会話には至らない。とりあえず「見せてもらってもいいですか」と新刊の中身を確かめてくれる。一通り確かめたあとで──でもどう考えても中身ぜんぜんみていない──こう言う。

 

「新刊ください」

 

それからようやっと「サークル主さんいますか」と話しかけてくれる。コミケだから、まず第一に頒布物のやりとりが基本の場だ。それをちゃんと守ってくれる。いくらか話す。いきなり内容について話すので、なんとなく「どちらさまで」と差し挟むかんじにもならない。そのまま名乗らないで去っていく。


これに「ただのコミュ障じゃん」なんて、雑なことを言わないでほしい。僕はこれをみて、なんかこう、奇妙な気持ちよさを覚えたのだ。


もちろんサークル主であるところの友人は、「なんで名乗ってくれないん?」とさかんに言っていた。それはまぁそうだろう。それでも、傍から見ているぶんには、馴れ合いと、何か名付けがたいモノの間の、ギリギリのありかたが、妙に好ましかったのだ。

 


たとえば「久々に会って話そう」となると、お茶会なり飲み会なりをセッティングして、2時間とか3時間とか話すことになる。これはなかなかにハイカロリーな交流のありかたのように思う。

 

みっちり話すのも楽しいけれど、もっと気楽なありかたでもいいじゃないか。この気楽なありかた、というのは、見えないものになりがちで、ちょっともったいないなと思うのだ──もちろん、5分で済ますには、ツイッターなどの他のSNSで情報が補完されている必要はあるのだけれど。

 

そんなわけで、1日売り子をやってみて、「会ってもいいし、会わなくてもいい」「ふらっと来て、5分だけ話す(しかも半分はネットでしか知らないうえに名乗らないから誰だかわからない)」というのは、思ってる以上に悪くなかった、という体感を得たのだった。

 

……まあ話してたのは僕じゃなくてサークル主なんだけど。

 

しかし、新刊本を用意して、1日ブースに張り付く、というのもコミュニケーションを目的とするにはあまりにもエネルギーが要るので、それはそれで考えもの。

 

実際、僕とサークル主は初参加の緊張と、2人ともトイレ休憩以外はほぼブースに張り付き通しだったことで、すっかり疲れ果ててしまっていた。だから別に「みんな同人活動しよう!」とか、そういうことが言いたいわけではない。

 


ところで、これに近いもの・似ているものは過去にいくつかあるわけで。


例1。アイドルの握手会・サイン会とか。

 

それは当然似ているというか、まんま同じだとは思う。そもそもコミケも有名サークル主との握手会みたいなところがあるし、その伝統・常識を逆手にとってアトラクション化してしまう「比村乳業」みたいな例もある。「ピコ手」といわれる最弱サークル主でもこの気分を味わえるという側面はある。

 

でも、「だれでもアイドル気分が味わえる」とか「アイドル文化と同人文化の並行性」とか、「会いにいけるアイドルとはどのように生まれたか」とか、色々切り口はあると思うけど、そうは言ってもこのコミュニケーション形式はイベント・ハレの場に最適化されたものだとも思うので、ぼくは「このコミュニケーションのありかた、もっと日常化できない?」ということがいいたいのだ。

 

例2。ダラっと作業してふらっと立ち寄って、話してもいいし話さなくてもいい、てそれ部室かゼミ室では?

 

しかしそれは違うんだ。似ているがちょっと違うんだ。

 

かつて入り浸る部室を持っていたひとも、たいていは大人になればそういう場を喪う。中には古巣に入り浸る者もいる。僕もそのうちのひとりだ。しかしそれにも限界はある。

 

それを寂しく感じて「大人の部室をつくろう」みたいなことをするひとは、全国津々浦々に星の数ほどいただろう、しかしまあ、見ている限りだいたいはうまくいかない(具体的な事例をあげろというのは勘弁してほしい)。

 

先日、後輩と「常連を相手にわざとらしい部室感を出してくる飲み屋がめちゃめちゃキライ」という話をした。「なんだひさしぶりじゃ〜ん」みたいな、馴れ馴れしさとネットリしたコミュニケーションがとりたいのではないのだ。

 

それとは真逆で、むしろ対面コミュニケーションが最小限になるありかたが、もっと当たり前になってほしいのだ。でも、半年に5分だけは会ってもいい(会わなくてもいい)みたいな。

 


じゃあ、コミケでもなく、握手会でもなく、部室でもなく、「5分だけ」の間がらでいられる空間って、どんなのさ……と言われると、これが残念なことに具体的なアイデアは、今のところない。

 

どうすれば日常に組み込めるのか、思いつかないんだけど、ともかくこの「5分だけ」という間がらが、もっとコミュニケーションの基本形になってほしいなー、という話なのだった。